ブログと修復と (α)

書き部のブログ。書いてあることの2割を嘘だと思って読むべし。毎週金曜午後に更新 月三回 コリウスの葉っぱが目印 更新は終了しました。

好きこその罠

  どうも、潜在的軽蔑の意の「とか」 例文:彼女がやりたいのは声優とかだと思うんだけど... 無意識に使ってしまうことがあるが、少しずつ修正していきたい。ばなです。


 好きな科目だから熱心に勉強できるというような言説がある。一見甘美に聴こえるがここにも潜在的な偏見が潜んでいる。
 まず、好きだからと言って学校のテストのような情報が重要な形式が楽しいとは限らないと言いたい(一日の長などと呼ばれる前提知識により有利になることはあり得る。)。関連する言葉や知識を詰め込むという方法による愛情表現/情報型の愛情表現をしない人種も沢山いる。関連情報を追い求める以外には、好きだわ~という充足感を得れる同じ部分を反芻してもいいし、好きという感情だけであんまり関わらないで いいわ~って思うだけでも愛情表現になるはずである。それ以外にも沢山やり方はある。アニメ鑑賞なら、セリフまで覚えるタイプの人間のみを肯定するような歪んだ言説である、
 このような情報型の愛情表現の人が増えるのには、好きこそものの上手なれが社会的に肯定されすぎてそれに毒されている事実はあると思われる。特に関連情報を追い求めるタイプの子供を「○○博士」や「天才○○生」などと言ってをこぞって礼賛する風潮がある。 例えば、電車が好きでも全国の路線図を書ける子供がいたとする。要領がよくて、更に愛情表現が情報型の子供だったというだけである。電車の絵やポスターを部屋に飾ってうっとりするだけだったり、同じ電車のビデオばっかり見てたりして、駅名等を知らない子供と比べてどちらがすごいなどということは全くない。 しかし、評価されて働いている職業や受験にどちらが繋がるか(所謂”実力”)、つまり社会的に認められるかは間違いなく情報型の愛情表現だ。
 また、情報型の愛情表現が受験や就職に有利になる、つまり生存に有利になってしまう現状により遺伝的な変化もあるかもしれない。